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芥川賞

芥川賞は、大正時代を代表する小説家の一人、芥川龍之介の業績を記念した、純文学の新人に与えられる文学賞。株式会社文藝春秋が呈する文学賞であり、菊池寛が1935年(昭和10年)に直木賞とともに創設し、以降年2回発表されている。受賞は選考委員の合議によって決定され、受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円(2004年現在)が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。2005年現在の選考委員は、池澤夏樹・石原慎太郎・黒井千次・河野多惠子・高樹のぶ子・三浦哲郎・宮本輝・村上龍・山田詠美の9名。

芥川 龍之介(あくたがわ りゅうのすけ、1892年3月1日生まれ)は『羅生門』などの著作で知られる日本の小説家。龍之介の名前は、彼が辰年・辰月・辰日・辰の刻に生まれたことに由来すると言われているが、これは事実ではないともされている。東京帝国大学(現東京大学)文学部英文学科在学中の大正三年に菊池寛、久米正雄らとともに同人誌「新思潮」(第三次)を刊行。翌年代表作「羅生門」を「帝国文学」に発表、級友の紹介で夏目漱石門下に入る。翌々年には第四次「新思潮」を発刊し、その創刊号に掲載された「鼻」が漱石に絶賛される。この年東大英文科を20人中2番の成績で卒業。(卒論は「ウィリアム・モリス研究」)大正五年十二月より海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)として教鞭を振るう傍ら創作に励み、翌年初の短編集「羅生門」を刊行する。大正七年三月教職を辞して大阪毎日新聞社に入社、創作に専念する。(ちなみに師の漱石も明治四十年、同じように朝日新聞社に入社している。)大正十五年(昭和元年)、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じて湯河原で療養。昭和二年一月、義兄の西川豊が放火の嫌疑をかけられて自殺する。このため芥川は彼の残した借金や家族の面倒を見なければならなかった。そして1927年7月24日、田端の自室で雨の降りしきる中、「続西方の人」を書き上げたのち、芥川龍之介は服毒自殺。社会に衝撃を与えた。死の数日前に芥川を訪ねた同じ漱石門下で親友によれば、芥川はその時点でもう大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っているという状態だったという。すでに自殺を決意し、体を睡眠薬に徐々に慣らしていたのだろうと推測される。遺書として妻文に宛てた手紙、菊池寛、小穴隆一に宛てた手紙があり、自殺の動機について彼は「僕の将来に対する唯ぼんやりとした不安」と記している。命日は小説『河童』から取って「河童忌」と称され、死の8年後、親友で文藝春秋社主の菊池寛が、芥川の名を冠した新人文学賞「芥川賞」を設けた。『藪の中』は黒澤明によって映画化され、日本映画初のヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞した。タイトルは『羅生門』と改称されている。
by maikovic | 2005-09-07 18:16